翌日。いつもと変わらぬ晴れた一日であり、いつもと変わらぬ時間に、いつもと変わらぬ荷物を背負って、リョウは闘いの数時間を始めるために、外出した。
 それは、全くの偶然だった。何の意味も無いはずの、偶然であるはずだった。リョウがいつもポケットに入れているはずの財布を置いてきてしまったことに気づいたのは、家を出てから10分ほど経ってからだ。
 いかに彼が強い格闘家であるとしても、腕力で全ての事実を捻じ曲げることは不可能である。例えば、彼の愛用する大型バイクがガス欠寸前であり、彼の腕力をもってしても空中からガソリンを製作することはできない、といった事実である。
 それは、彼の単純なミスであるはずだった。ただもと来た道を10分ほど歩いて帰宅して、改めて財布をポケットにねじ込めば、それですむはずだった。彼の職業は肉体には厳しいけれども、時間にだけは厳しいわけではなかったから。

 だが、たった一つのその事実が、彼の人生を変えた。
 時間はまだ午前七時前である。周囲は静かなものだし、ユリもまだ家で登校前の時間を、家事に奔走しているはずだった。

Act.1-4 Myself;Yourself
KEEF

 ユリがリョウに対して溢れるほどの想いを募らせるのと同じように、リョウにとってもユリは、何にも代えがたい大切な存在である。
 だがその想いは、ユリのそれとはやや異なる。ユリがリョウに、螺旋状に想いを募らせているのに比べれば、リョウのユリへの想いはどちらかと言うとシンプルで、ただ一直線に突き抜けるかのようなものだった。

 もちろん、リョウがユリを愛しているのは犯しがたい事実であったが、それは一定の範囲から逸脱するものではなかった。どれほど大きな存在であっても、ある一定のラインを超えるものではなかったのだ。
 リョウはただ、ユリを護るためだけに生きている。そういう意味では、ユリがリョウの全てである間違いは無く、ユリにとってリョウが自らの全てであることと酷似している。

 ただそこには、深刻な一点の違いがある。

 リョウは、ユリが他者から心身を犯されることが無いように、心から願っている。そしてそれは、ユリとて同じである。
 ただ、その「他者」の解釈が違うのだ。
 リョウにとって「他者」とは、自分も含めた「ユリ本人以外の全員」である。
 だがユリにとっての「他者」とは、つまるところ「リョウ以外の全員」であった。
 この解釈の違いこそが、この兄妹の間での、唯一にして最大の違いだったのだ。
 二人とも、お互いを貴重な存在と認識し、ただお互いのためだけに生きていることは確かである。
 だが、リョウはユリを貴重なものとして、それを外側から護ろうとし、ユリはリョウを貴重なものとして、内側から一つとなることを望んでいた。
 このことを理解していたのは、ユリだけだった。だから彼女は黙っていた。正しいのはリョウのほうで、間違っているのは自分のほうだと、よく理解していたから。
 自分が隠し通しておけば、それですむはずだったのだ。自分の意思で、それを抑えておけば。

 だが、自分の意思ではどうにもならぬことがあるのだということを、ユリもリョウも、知ることになる。


 ドアを開けて、リョウはまずヘンだと思った。静か過ぎる。
 学校へ出るには早すぎ、ユリがまだ家事をしているはずで、彼女の足音、水道の音、掃除機の音、テレビの音。何かが聞こえているのが自然であろう。
 だが、それらの音が一切聞こえない。不自然な沈黙。
 もしかしたら、という懸念を覚えて、リョウは唾を一つ飲み込んだ。そして、ゆっくりと自宅に足を踏み入れる。
 やや警戒しながら、三歩ほど進んで、脱衣場の方から声が聞こえてきた。間違えようが無い、ユリの声だ。

 だが、その声は、リョウが知っている妹の声ではないような気がしてならなかった。か細い。何かに押さえつけられたような繊弱な声。

 ―――おかしい。

 リョウは漠然とした不安を胸中で物質化させたが、迷っている暇はない。

 ―――ユリになにかが―――。

 あったのは、間違いない。リョウは逡巡をかなぐり捨てて、一歩を踏み出そうとした瞬間、その耳にユリの声が飛び込んだ。

「お、お兄ちゃぁん……」

 その弱々しい声が鼓膜を奮わせた瞬間、リョウは脱衣場へ飛び込んだ。
 妹が呼んでいる。
 ならば、何を迷うことがあるだろうか。

 そして、何かあったのか、と誰何の声を上げようとしたリョウの声帯を、視神経に飛び込んできた風景が締め上げた。
 リョウの全ての思惑を粉々に打ち砕いて吹き飛ばす光景だった。

 ―――ユリの裸体だった。

 ユリはいつものように、リョウの胴着を全裸の上にまとって横になり、自慰行為に没頭していた。そして、最も大きな絶頂を迎えた直後だったのだ。
 足を広げ、愛液を噴出したユリの秘所が、まともにリョウの神経を席巻する。
 頭髪よりもブラウンに近い恥毛は成長しきっておらず、かろうじて秘所を覆っているだけだったが、その中心にあるピンク色の花弁は、大きな絶頂を与えられて満足そうに小刻みに痙攣していた。
 そしてその痙攣に合わせるように、妹の身体も小さく震えていた。だが、更なる快楽を求めているのか、絶頂後の余韻を愉しんでいるのか、クリトリスに添えられた指先は、淫靡にその突起をしごいたりつついたりしている。

「お兄ちゃん……」

 ユリは目を閉じたままで、名を呼んだ当人の登場に全く気づくことなく、その胴着を顔に当て、指を動かし続けている。

 リョウの思考と動きは、完全に停止していた。
 目の前の光景を事実として説明することは可能である。

 妹が、自分の胴着を全裸の上に着て、自分のことを想いながらオナニーをしていた。

 だがそれを、情報として脳に理解させることは、困難を極めた。万事にして経験豊富なリョウの洞察力をもってしても、絶対に想像すら不可能だった光景だった。

 そして、リョウが完全に活動を停止している瞬間にも、無情にも時間は進み、場は動く。
 ユリが絶頂の余韻から立ち直り、身を起こそうとしたのだ。当然、起き上がりかけたユリの目に、絶対にこの場にいないはずの人物が飛び込んでくる。
 今度は、ユリの動きが止まる番だった。
 ユリは、オナニーの興奮で桜色に染まった肌を隠すことも忘れて、兄の姿を凝視した。リョウに目には、今度は、大きくは無いもののバランスの取れた形のよい妹の乳房が映りこんだが、リアクションなど起こせるはずも無い。
「なにが起こっているのか全くわからない」。二人とも、そうとしか表現できない顔をしていた。

 最初に我に返ったのは、ユリだった。これは、双方にとって幸運とは言えなかった。
 ユリはパクパクと、水面に顔をのぞかせた魚のように口を動かして、言葉にならない言葉を空中に吐き出した後、自分が兄に全裸を晒していることを一瞬の後に気づいて、自分の腕で身体を抱くようにしてしゃがみこんだ。

「出て行って! 出て行ってよ!!」

 大きな涙声が、サカザキ家に響く。
 ユリ自身、我には返ったものの頭の中は混乱の極みである。何が起こっているのか全くわからないが、ただ、自分の想像しうる最悪の出来事が起こってしまったことだけは、かろうじて理解している。
 一番見られてはいけないことを、一番見られてはいけない人に見られてしまった。

 ―――すべてが、終わった。

 そんな思いさえ、ユリの脳裏を走り去る。
 まともな思考など働くはずが無い。動転の極み、ユリは手近にある洗濯物をひたすら兄に投げつけながら、ただ「出て行け」というセリフを繰り返した。

 リョウのほうもようやく我に返ったが、このような状況でできることがあるはずもない。とりあえず急いで自分の財布を見つけてポケットにねじこむと、無言でその場をあとにした。

(今は、ユリを刺激しないほうがいいだろう。夕方まで待てば、少しは話ができるかもしれない)

 そう思って、リョウは出て行った。

 独り残されたユリは、裸のまま脱衣場の床に突っ伏して、ただただ嗚咽を漏らしていた。


 ユリはその日、結局、学校へは行かなかった。これまで無欠席で通してきたものを、始めて出欠表に穴を開けてしまった。
 ユリの友人たちは学校が終わった後、、いったい何事かと心配して家の前まで集まってくれたが、ユリは彼女たちに会わなかった。会えるような状況ではなかった。
 肉体的な急性の病気ならば、ユリなら一日でも寝ていたら治る。このときはまだ格闘技には関わりを持ってはいなかったが、まがりなりにもユリは、偉大なる「ミスター・カラテ」の娘であり、後の「無敵の龍」の妹である。身体的には、見た目よりも頑丈にできている。
 だが、中身はそうはいかなかった。頑丈な骨格に包まれた精神は、その外面ほど強くはできていない。むしろ、同年代の同性と比べても、はっきりと脆い。

 いくら陽気に振舞っていても、いくら健気に振舞っていても、その人格を支えている骨格が、友人たちに比べて危ういのだ。

 ユリ・サカザキという一つの人格を支えているのは、「リョウ・サカザキ」という、絶対にしてたった一本の柱しかない。
 ユリは、自分で自覚している以上に兄への依存度が高い。それは「精神的に」とか、「物質的に」とかいった、一面的なことではなく、「ユリ・サカザキ」という存在そのものが、「リョウ・サカザキ」という存在に寄り添っている。半ば同化しているといっても、過言ではない。
 お互いが半身同然のお互いをうしなって生きていけるはずが無い。それは、リョウとユリの共通の認識である。

 だがその認識は、ユリのほうがより深刻だった。リョウには「極限流空手」という武器がある。あくまで現実的な例えではあるが、極端なはなし、彼は独りになっても生計を立てていけるのだ。
 だが、ユリはそうではない。リョウはユリを失っても、形だけであるとはいえ、極限流空手が残る。だが、ユリがリョウを失ってしまえば、彼女には文字通り、何も残らないのだ。
 物質的にも精神的にも、金銭的にも能力的にも───ユリの存在は、完全にゼロにリセットされてしまうのだった。
 それほどまでに自分にとって強い存在であるからこそ、ユリは兄の存在を何よりも貴重に想い、何よりも大切にしてきたのだった。

 ──────だが。

 起こってはいけないことが、現実に起こってしまった。
 よりによって、一番見られてはいけない場面を、一番見られてはいけない人に見られてしまった。
 現実ではあってほしくないと、いくら事後になって思ってみても、それは現実だった。ユリにとっては、絶望的な「現実」だった。

 ──────壊れた。

 そう、思わざるをえなかった。
 禁忌の想いを抱く妹、この歳でその想いを淫らに実行してしまう妹。
 生真面目で慎重な性格の兄が、そんな妹を許すはずが無い。

 ──────絶対に、嫌われた。

 それは、ユリにとっての死刑宣告文以外の、何者でもなかった。
 リョウに嫌われたら、果たして自分はどうなってしまうのか。これまでは、考える必要もないことだった。
 だが、その可能性を多分に含む現実が、ユリの目前に突きつけられた。それに対してユリは、どうしてよいか分からず、ただ泣きうめくだけだった。

 これは、ユリにとっては二重の苦痛だった。本来のユリは「切り捨てること」ができる器量を持っている。どうしようもないことでくよくよしたって、何も解決しないことを、彼女は良く知っているはずなのだ。
 そしてその唯一の例外が、兄の存在であった。兄への禁忌の想いが、ユリが「切り捨てること」ができない、唯一の聖域サンクチュアリだったのであり、その聖域を侵したのは、実に兄本人だったのである。

 ユリは、ただひたすら、現在の苦悩と未来への絶望に肩を震わせていた。
 おそらく本人は気づいていないだろうが、ユリがこのとき気にしていたのは、実は、兄への責任の取り方だけだった。
 自分はどうすればいいのか。どうすれば、リョウに嫌われずにすむのか。嫌われてしまったら、自分はどうなるのか。
 そのことばかりが頭の中を回転しはじめ、ユリは、最も大切なことを忘れていたのだ。

 つまり、リョウ自身の気持ちである。


 結局、ユリはリョウに判断を委ねることにした。素直に謝って、あとはお兄ちゃんの言うことを聞こう。
 半日かけて、顔を真っ赤にするほど泣きはらした結果が、これであった。結局、自分一人で抱え込んでみても、どうすることもできない。それだけが、彼女の現実だった。

『素直に謝って……、嫌われたら、死のう』

 この暗い深刻さだけが、いつもと違っていた。
 ユリの表情に、泣きはらした興奮の赤と、悩みぬいた憂悶の青の二色が刻み込まれている。時計は午後七時を指している。

 もうすぐ、リョウが帰ってくるはずだった。


 その晩、リョウが帰宅したのは、いつもよりも一時間ほど遅い、午後八時を過ぎてからであった。その一時間のあいだ、ユリはまた、暗い想いに支配されて、ますます表情を暗くした。
 ユリはこのとき、深刻なほど強烈な二律背反に支配されている。
 リョウの声を一刻も早く早く聴きたかった。ユリが困ったとき、彼女を助けてくれるのはいつも兄であり、ユリにとっては、ただ一人、兄だけが自分の救い主だった。これ以上ないほど深刻な絶望感に包まれている今こそ、力強い兄の言葉に包まれたかった。
 しかし、その言葉の内容如何によっては、今夜がユリの、さして長くも無いこれまでの人生にとって、最悪の夜になるであろうことは確実だった。そして場合によっては、最後の夜になるであろうことも。

 そして、午後八時過ぎ、リョウの帰宅を告げるドアのベルが鳴った。ユリの呼吸と鼓動が、その激しさで停止してしまうのではないかと思えるほど、活発に飛び跳ねた。

「おう、ただいま」

 帰ってきたリョウは、いつものようにユリの出迎えを受けると、破裂する直前の風船のように緊張と不安で膨れ上がっている妹に、自分の荷物を預けた。
 いつものリョウだった。
 兄はいつも疲れて帰ってくると、汗と埃にまみれた胴着の入った荷物をユリに預け、自分は狭いダイニングのソファで一息つくか、そのままシャワーを浴びるのが日課である。
 そして、ユリの目の前にいるリョウは、まったくいつものリョウだった。
 いつものように疲れたような足取りでダイニングに直行し、ソファにどっかりと逞しい身体をあずけ、大雑把に新聞を広げる。
 そこには、いつもとなんら変わらない生活の一場面が展開されている。

 ユリは意外に思った。そして、ますます不安になった。
 リョウが自分の行為を見てしまったのは間違いない。
 あれは幻ではなく、リョウも必ず何か思うことがあるに違いない。

 リョウに何か言われたら、そして何を言われても謝ろうと思っていた。
 だが、そのリョウが何も言わない。

 ―――無視されている。

 これはこれで、ユリの不安を増殖させるに充分だった。

 ユリがリョウの荷物を持って玄関先に突っ立ったまま。
 そして、リョウがダイニングで新聞を広げたまま、不自然な沈黙の時間が流れる。
 時計の秒針の音だけが、ユリの不安の風船をちくちくと突き刺していく。
 ただでさえ、緊張と不安で割れそうになっている心は、もうもちそうになかった。

 ―――あの。

 ユリが意を決して、一歩を踏み出そうとしたときだった。
 リョウがいきなり新聞をたたみ、乱暴にソファの背もたれに体重を預けた。
 出鼻をくじかれたユリが、びくりと身体を震わせて立ちすくんだ。
 リョウは上半身全体を使って大きくため息をつき、ユリが驚いたことに、苦笑した。

「ああ、やっぱり、何事も無かったように振舞えるほど器用じゃないな、俺は」

 瞬間的にリョウの様子を理解しきれず、ユリの表情が、見事に不安と不審とに二分される。
 だが、リョウの表情はどこまでも穏やかだ。
 彼はソファに座り直すと、ユリのほうに顔を向けた。
 ユリの身体が無意識に、またびくりとした。
 リョウが言う。

「なあ、ユリ。気にするな……ってわけにはいかないか?」

「え?」

 何を言われたのか一瞬、理解できず、ユリの言葉が詰まる。

「見れば分かるよ。お前のことだから、一人で色々考えて、やりきれなくなってるんだろう?
 俺になにか言われないか、とか、俺に怒られないか、とか……」

 ユリは愕然とした。
 全部、見抜かれていた。
 自分の思いも、自分の不安も、自分がどうなっているのかも……。

「なんで……?」

 ぽつりと呟くように言ったユリから一度、視線を離し、リョウは足を組みかえる。

「なんでって、兄妹じゃないか。お前の考えそうなことくらい、想像つくさ」

 幾分、平静を取り戻して、ユリはリョウの荷物を抱えたまま、彼の傍に寄った。
 不安から解放されたわけではないが、それ以上に疑問が心に広がっている。

「……驚かなかったの?」

 ユリの質問は短い。何を見て驚かなかったのか、とは聞けなかった。
 あの自分の行為の内容を確認することも、確認されることも、今のユリにとっては最上級の厳しさだった。

「そりゃ、驚いたよ。一瞬な」

 つとめて明るく、リョウは答える。
 緊張を解かない妹の様子を慎重に見ながら、言葉を選んでいるようだ。

「驚いたけど、驚いただけだ。それ以上は……いや」

 一瞬、ユリの不安が倍増した。それ以上に、なんだというのだろう。
 その不安がもろに表情に出てしまったのだろう。リョウが「ああ、すまん」と思わず謝ってから、続ける。

「嬉しかったよ」

「え……?」

 先ほどまで不安で激しく鼓動していたユリの心臓が、今度は別の感情で飛び跳ねた。
 何を言われているのか、まだユリの理性は理解し切れていない。だが、ユリの精神を覆っていた不安の雲がさっと晴れていくのだけは分かった。
 緊張でがちがちに固まっていた身体から力が抜け、兄の荷物を抱えたまま、情けなくよろめいた。
 さすがの素早さで立ち上がったリョウが、力の抜けた妹の身体を支えた。
 そして、一瞬の間をおいて、ささやいた。

「俺のこと、そこまで好きになってくれて、ありがとうな」

「……………………!」

 ユリの身体が、また震えた。今度は、自分でもその原因が分かった。
 ついさっきまで、想像もしていなかった光が、ユリの精神に溢れてくる。
 未熟な暗い覚悟を溶かしていくように、兄の体温が、ユリの身体に伝わった。

「……どう……して……」

 ユリは何かを尋ねようとするが、うまく言葉にできない。
 ただ、徐々に溢れてくる涙が、自分が救われたのだ、という現実をユリの理性に理解させていた。
 リョウが静かに続ける。

「俺だって、不安になるんだぜ。
 お前に苦労ばかりかけてる。お前に何もしてやれてない。
 俺にできることって言ったら、誰かを殴ったり蹴ったりして、乱暴に稼ぐことだけだ。
 そんな俺のことを、お前にどう思われてるんだろうって、不安で寝れない事だってあるんだ」

 言って、ユリの身体を離し、リョウはもういちどソファに体重を預けた。
 剛直な彼らしくなく、わずかに身体が震えている。
 ユリにとってリョウに嫌われることは、人生を棄てることとほぼ同じ意味だった。
 だがそれは、リョウにとっても同じことだった。
 ユリがいつも不安に耐えているように、リョウもそうだったのだ。
 深く助け合い、協力して生活していく中でも、どうしても触れられない部分というのはある。
 知りたいと思っても、同時に知るのが恐い、聖域。
 普通の兄妹関係よりも深い信頼で結ばれているぶん、よけいにその聖域に触れること、触れられることが恐くなっていく。
 ユリの行為は、その聖域の扉を開くきっかけでしかなかったのだ。

「ま、そういうことだ」

 そんなことができる性格でもないのに、リョウは無理に誤魔化した。

「俺は、お前が思っているようなことは、考えてないよ。
 気にするなと言ってもすぐには無理かも知れないが……」

 その優しい笑顔が、ユリの心をどのくらい救っているのか、リョウ本人はわかっていないに違いない。
 ユリの笑顔が、リョウの心を救っているように。
 不安を砕いただけではない。今日、その笑顔は、ユリの命を救った。
 誰よりもそのことを、ユリが理解した。
 愛している。そして、愛されている。
 ユリがリョウに持っているのは恋、リョウがユリに持っているのは家族愛だ。
 かたちは少し違うかもしれないが、ユリの最大の不安を取り除いてくれたのは、やはりリョウだった。
 そのことが、なによりもユリは嬉しかった。

 不意に、ユリはリョウの荷物を落とし、兄の首に抱きついた。
 そして、かろうじて目にためていた涙を、全開した。
 感情を解放して、ユリは大泣きした。
 リョウの目の前でユリが泣くこと自体が、珍しいことだった。
 それだけ、ユリの不安は大きかった。そして、それが解決した後の安心感も大きかった。
 巨大な不安と、巨大な安心感が、交互にユリの目からは涙となって、口からは嗚咽となって流れ続けた。
 リョウはなにかを言いかけたが、結局はなにも言わないまま、ユリを抱きしめている。

 そうして大きな感情が流れ去った後、ユリはリョウの首筋に抱きついたまま、しばらく呆けたように兄の顔を見つめた。
 首にかかる妹の腕に込められた力が、段々と強くなっていくのを感じ、リョウは何かを言おうとしたが、ユリの次の行動に、それもさえぎられた。
 ユリが、リョウの唇に、自らの唇を重ねた。
 それは乱暴とも言えるような激しいキスだった。ただひたすらに、貪りつくように、ユリはリョウの唇を求めた。
 ユリは、自分の思いの全てを理解してくれたこの兄が、愛おしくて愛おしくて仕方なかった。
 でも幼いユリは、それを語る言葉を、まだ知らなかった。
 それが、激しいキスになった。もてあました想いを、行動であらわした。
 まるで仔犬が飼い主にじゃれつくように、ユリはリョウにじゃれついた。

「おい、ユリ……」

 と、リョウがユリを引き剥がして言いかけたが、彼の言葉は、すぐにユリの唇によって封じられた。
 18歳にしては世慣れたところがあるリョウも、こういう場合の対処には不慣れだった。
 だから、とりあえずは妹の満足するようにしてやろう、と、この場で焦ることを諦め、観念した。
 ユリの精神こころの中で、「お兄ちゃんとひとつになりたい」という願望がはっきりとしたかたちとなったのは、この夜のことだった。