結局今日、リョウは戦わなかった。戦う気分になれなかった。
 確かに生活のためには自分は戦わねばならないが、集中もできないのに戦っても勝利は得られない。敗者は同情は得られるが、同時に軽べつも与えられる。
 リョウが望むものは何一つ得られない。

 リョウは、一日もやもやした気分のまま、街をぶらついた。バイクに乗ってハイウェイを無目的に走りぬけ、メインストリートから一本はずれた通りを歩いては、目的もなく自分に全く縁のない店にふらりと顔をだしてみたりもした。
 普段、自分のやらないことをやって、初めての体験に答えを出そうとしたのかもしれない。しかし、それで答えが得られないことも、リョウは理解している。

 結局のところ、リョウの抱えている問題ははっきりしている。ユリの気持ちにどう応えるのか。ただその一点でしかない。
 そしてそのただ一点で、リョウは急流に翻弄される魚のように、そのたくましい心を迷わせていた。

Act.1-6 Wheel of Fortune
KEEF

 夕方、リョウは海岸のテトラポットの上にいた。何をするわけでもなく、哲学的な思考ともまったく無縁である。ただ、海に沈みいく夕日を眺めている。
 リョウは、朝に聞いたキングの言葉を反芻していた。大事なものならば奪ってみせろ。それも器量のうちだ。
 ……と、キングは言った。確かにそうかもしれない。
 リョウ自身が今、そういう生活をしている。その鉄腕で自分とユリの生活に関わる総てを稼ぎ出している。
 キングは戦い方こそ荒々しいが、同年代のストリートファイターの中では、そうとうに切れる男だ。集めているのは烏合の衆かもしれないが、その根幹にはしっかりと一本の筋を通している。
 ジャックを倒してストリートの覇権を握る、という筋を通しているのだ。そのキングの価値観に従うなら、自分の筋を通しているリョウにも、男なりの器量があることにはなる。
 だが、それがあるとして、妹の愛にどう応えろというのだろう。

 このとき、リョウはあることをすっかり忘れている。彼が考えているのは、自分の体面のことだけなのだ。ユリの気持ちに応えることを考えながら、ユリが何故その愛に行き着いたのか、リョウはまったく考えていなかった。
 考えていなかった、というより、考えるゆとりがなかったというほうが正しいかもしれないが。

 自分の隣に、一組のカップルが腰を下ろした。リョウの人生には全く関係のない、幸福そうな一組の男女だ。
 背丈はほぼ同じでどちらも金髪。どちらかというと男は細身で、女のほうが肉付きがいい。
 二人が何を考えているのかは、リョウにも、恐らく二人以外の誰にも分からない。
 ただひとつ分かることは、この二人が幸福なのだということ、それをわからせるような笑顔に満ちていることだった。

 不意に、リョウが二人に話しかけた。今日一日、自分らしくない時間を過ごしてきた中で、これがもっとも彼らしくない行動だったろう。
 どうせなら、最後まで自分らしくなく通してみようと、体が動いたのかもしれない。

「仲がよさそうだな。それにいい笑顔だ。なにかいいことがあったのかい?」

 突然、話しかけられた二人は、一秒ほど顔を見合わせたが、「最高の」と冠詞をつけてもいいほどの笑顔をリョウにむけて、そして、言った。

「もちろんだ。今日も彼女と一緒にいることができた。これ以上にハッピーなことがあるわけがない。違うかい?」

「右にまったく同じよ。昨日は人生で二番目に良い日だった。そして今日は、人生で一番良い日だったわ」

 それは、よく言えばありふれた、悪く言えば陳腐な愛の言葉。そして、最も幸せに満ち溢れた言葉なのだろう。
 一緒にいるだけで幸福。時には求めても得られない幸運な世界。そして、一度失われたら戻ってこない時間。

 ああ、とリョウは思う。
 彼は長くもないこれまでの人生でもう二度、この「幸福な時間」を失っているのだ。普段は思い出さないように、精神の奥に無理やりしまいこんでいる。
 ならば、それを常に思い出さないのか。思い出させないようにさせてくれているのは何?

 ユリだ。

 リョウはしばらく呆然とした。迷いの一部がとつぜん氷解して、彼はどうしていいか分からなかったのだ。
 ユリの存在が、彼の心を救ってくれている。それを気づかせないほど、「当然」のように、リョウを救ってくれているのだった。
 自分がこうだ。ならば、ユリにとって自分の存在はどうなのだろう?

 その答えは、すでにユリ自身が彼に示した。「愛している」と。

 リョウの手が、わずかに震えている。頬が少し紅潮していた。隣にいたカップルが心配するほどの、彼の変化だった。

「……おい、大丈夫か? なにかアンハッピーなことがあったのか?」

 はっと我に返って、リョウは人目があったことに気づいた。気づいて、今度は気恥ずかしさで紅潮して、目をそらした。

「いや、実は俺も彼女・・のことでね、ついさっきまで悩んでたんだ」

「さっきまで?」

 女性が不思議そうな顔をしたが、リョウは笑顔を向けた。それは迷いを振り切った人の笑顔で、これから最後の門を突破する人の笑顔だった。
 リョウは、肩をすくめて見せる。

「だけど、君たちの笑顔を見たら、なにがなんだか分からないうちに、悩みがふっとんじまった。
 彼女は何も悪くなかったんだよ。それどころか、最高に勇気を持って俺を諭してくれてた。
 さっきまで、俺は自分のことしか考えてなかったんだ。でも気づいた。俺たちは、二人で一つなんだ」

 リョウは、右拳を左の平手にたたきつけた。そして、二人に右手を差し出した。

「君たちのおかげだよ。……ありがとうサンキュー!」

 カップルは顔を見合わせて、再び笑顔になった。そして、リョウの手に二つの右手が重ねられた。

「よくわからんが、この世はハッピーなのが一番だ。彼女のこと、大事にしてやりなよ?」

「ああ、そうするよ。感謝ついでに、二人の馴れ初めを聞いても良いかい?」

「かまわないけれど、日付が変わるまで喋り続けるわよ。覚悟は良い?」

 リョウはちょっと苦笑した。

「そいつは困るな。夕食に間に合う程度のストーリーにまとめてくれると助かる」

 リョウにもう迷いはない。ユリが手をかけた運命の輪は、リョウを巻き込んで確実に廻りはじめていた。