その朝ユリを絶頂させたあと、リョウは空手着に下駄といういつもの格好で自らレストアした大型バイクにまたがった。
 この近辺では最新、最大の都市に相応しい近代的な大通りも、道を一本入ればスラム街の様相が見えてくる。サウスタウンの様々な貌を知っているリョウにとっては当たり前の光景であり、街の近代化を素直には誇れない。
 風とともに過ぎ去っていくリョウの視界の端で、歩道にヒッピー達がギターを持って集い、ジョン・レノンの真似事をして歌っている。彼らのうちの1%でもジョン・レノンやポール・マッカートニーになれるのかどうかは、リョウの興味の外にある。
 そして、彼自身の仕事は街のメインストリートよりもその裏側の風景の中での方が多かった。

 リョウはバイクをメインストリートから二本ほど外れた通りに転がした。一目見て分かるほど、住んでいる人種が変わる。メインストリートの好景気とは無関係な肌の黒い若者たちが、そのあたりにたむろしている。
 中には白人の若者も見えるが、彼らも一般の社会とは迎合せず、自らの生き様を貫き通しているのだろう。中にはそのうち、リョウの人生に関わってくるものも一人や二人、いるかもしれない。

 リョウが様子を見に来たのは、その若者達の大ボスとも言えるような存在だった。

Act.1-10 Bear killing Jack
KEEF

 リョウがバイクを停めたのは、「STREET STARS」というバーの前だった。まだ午前だというのに、なんの遠慮もなく朝から安酒を出している、裏町のそういう店だ。
 店の前には、リョウのものよりも小さいものの、いかついバイクが何台も停められており、この店に来る客層がわかるというものだ。
 リョウがバイクから降りる前に、「そういう客層」の何人かがリョウに近づいてくる。とても友好的な視線とは言いがたい。
 黒人の若者が二人、白人が二人。メインストリートで通用しそうな小奇麗な服装ではない。自慢のナイフを器用に弄んでいる。リョウが怖気づくのを当然と思って見せ付けているのだろうが、彼らの目前にいるのは、そんなものが脅しとして通用する相手ではなかった。

「兄ちゃん、面白えカッコウしてんな。カラテ屋かい?」

「何しに来たか知らねえが、そんなお坊ちゃん格闘技が通用する街じゃあねえぜ。金が無いなら怪我する前に帰るんだな」

「もっとも、こっちは怪我せずに帰す気もねぇけどよ」

 人数を頼んでいるのか、それとも武器に頼っているのか、彼らは最初から勝つ気でいる。そのニヤけた視線が少し気に障ったが、リョウはあえて別のことを口にした。

「オーナーのジャックは、今日は来ているか?」

 その名前に驚いたのか、若者のうち二人が顔を見合わせた。

「どんなつもりでテメェがその名前を出したのか知らないが、ミスターを気安く呼び捨てにしたんだ。
 テメェ、もう無傷じゃ帰れねぇぜ?」

 四人の視線が、一気に強張った。先ほどまでと違って、本気でこちらを傷つける気になったのだろう。無論、この程度の四人がかりで打ち負かされるようなリョウではない。
 だが、リョウが金にならないストリートファイトで自分から手を出すことはない。彼が自分から手を出すのは、愛する家族に刃を向けた者だけだ。
 彼にとってストリートファイとはあくまでビジネスであって、生来のケンカ好きというわけではなかった。

 リョウの予想通り、先に手を出してきたのは相手の方だった。とても法にかなっているとは言いがたい右ストレートが、彼の頬を掠める。
 当てるつもりでいった当てが外れたのか、相手が呆気にとられている隙に、リョウはもう一人のうってきたアッパーカットをすれすれのところで避けていた。
 避けられたほうは理解した。右ストレートもアッパーも、相手は偶然に避けたわけではないということを。
 その隙に、リョウは自らも得意とする右ストレートではなく、相手が上半身だけでは避けようがない左ボディブローを一発、相手に打ち込んだ。
 ……そのつもりだったのだが、彼のパンチが届く前に、その相手はその場からいなくなっていた。
 リョウ自身も目視していた。彼のパンチの対象となった男を、背後の大柄な男が頭をわしづかみにし、そのまま背後に「放り捨てた」のである。
 投げ捨てられたほうの男は自分に何が起こったのか理解が追いつかず、激しい痛みにもだえながらも、自分を投げ捨てた男を見上げてすべてを理解した。
 リョウに立ち向かっていたほかの三人も、その男を見て恐れおののき、一歩後ずさった。

 リョウがその男を少し見上げた。
 背はリョウよりも少し高い程度だが、身体の横幅が全く違う。引き締まったリョウの身体に比べて大量の脂肪に包まれているが、不思議とだらしのない肉体には見えない。
 やや眺めの金髪をした青い眼の巨漢で、大きなサイズのジーンズにブーツ、上半身はデニムのチョッキだけを身に着けた大男。「熊殺し」という通称で恐れられる、このあたりの若者たちの総元締め。
 ジャック・ターナー。この「STREET STARS」のオーナーでもある男の名前だった。

「やめておけ。お前らが一万人で殴りかかっても、こいつにはかなやしねぇ」

 行儀悪く、ジャックが風船ガムを膨らませながら言うが、若者達は納得していないのか、リョウに敵意を向けたままジャックに詰め寄る。

「だけどミスター、こいつはミスターを呼び捨てにしたんだぜ? 許しちゃおけねえ」

 ジャックは一顧だにしなかった。ガムを吐き出すと、その異様な迫力に包まれた肉体と鋭い眼光をリョウに向けたまま言う。

「こいつはそういう男だ。何者にも関わらねぇが、何者にも迎合しない。
 ジャパニーズだが、バズーカ砲を持ち出してもこいつを心から屈服させることなんてできやしねえよ」

 そう言うと、熊殺しのジャックは四人の若者を追い払った。
 熊殺し。伝説である。12歳のとき、サーカスを見に行った。何かの拍子で暴れだした熊を、腕力だけで返り討ちにした。
 真実かどうかはリョウは知らない。だが、その伝説を確認しようとジャックにかかっていった者は、一人残らずたたき伏せられた。彼の強さに惚れ込んで彼の指揮する暴走族「ブラックキャッツ」に入る連中も多かった。
 もちろん反抗的な態度を続ける者もいたが、ジャックは不思議とそういう連中を野放しにしている。ジャックは直接的に自分に歯向かう人間には容赦はしなかったが、そうでない人間には一切手を出さなかった。
 まともな社会人として生きられるような人間性ではないが、一本筋の通ったアウトローなのかもしれない、とリョウは思っている。

 そのジャックが、リョウを値踏みするように見ている。二人は顔見知りである。
 裏通りのストリートファイトでナンバーワンの実力者であるリョウに、裏通りの若者達の総元締めであるジャックが声をかけたのが最初だった。
 ジャックは、リョウが自分に畏怖して仲間になるような人間でも、自分達に迎合するような人間でもないことをすぐに見抜いたようである。そして、逆にその気骨を気に入り、リョウのことは好意的に見ているようだ。
 リョウが掛け金を得るためのストリートファイトの試合を取り仕切ったこともある。リョウが勝てばジャックにも利益のいくWin-winなものだったが、そういう意味ではリョウに無関係な男とは言えなかった。

「珍しいところでウロウロしてるじゃねぇか、ボーイ。今さら宗旨替えしてブラックキャッツに入りたいってんなら大歓迎だぜ」

「残念ながらそのために来たんじゃないがな」

 ボーイ、と呼ばれたことが少し癪に障ったが、体格的には大人と子供のほどの違いがある。二人を知らない者が見れば、そのケンカの結果は火を見るより明らかだろう。
 だが実際、この二人は闘ったことはない。前述の通り、ジャックは自分に直接的に歯向かう人間しか手にかけないし、リョウはジャックと戦う意味がなかった。仮にジャックがユリを襲うような事態にでもなれば、リョウは鬼神と化してジャックに襲い掛かるだろうが、幸いにもそのような事態になるような空気ではない。
 だが、ジャックの周囲は違う意味で殺気立っている。明らかに、なにか戦いの前の空気を感じるのだ。ジャック自身が超然としているので、リョウのような猛者だけが感じているのかもしれないが。

「随分と殺気だっているな、お前の周囲は。なにか抗争でも起こすような雰囲気だ」

 挑発とも言えるリョウの言葉にも、ジャックは動じない。逆にニヤニヤとした笑みを浮かべている。

「なに、久しぶりに俺に集団でケンカを売ろうという威勢の良い馬鹿が出てきてな。個人のレベルで騒がしいだけなら放っておくんだが、集団で名指しでケンカを売られちゃあ黙ってもいられねえ」

 この言葉ですべてを察し、リョウは難しい顔をした。

「やはり、キングと争うつもりなんだな、ジャック」

「あっちから売ってきたケンカだ。買わなきゃブラックキャッツの沽券に関わる。
 リョウ、お前は何の用だ。すまんがお前の賭け試合の元締めをやっていられるほど、今の俺はヒマじゃねえ。それに、お前のことだから俺に味方しに来たってわけでもねぇだろう」

 ジャックはリョウに正対すると、両の拳の骨を鳴らす。普通の相手なら、これだけで腰を抜かして逃げ帰るだろう。それだけの風格と威圧感を、この若い男は持っていた。

「お前が俺を邪魔するつもりなら、今ここで叩きのめして帰してやるぜ」

 男の沽券か。リョウの思考に、一瞬、憧れのような思いが流れ込んだ。
 自分のためではなく、ひたすらユリを護る為に闘うリョウにとって、キングとジャックのいう沽券とやらは、まるで子供のケンカの理論だ。笑うべき幼さに満ちている。
 だが、リョウがそういう、自分の年齢に相応しい若さに満ちた戦いをする機会は、もう永遠にやってこない。
 若さに任せて自分のために闘える二人と、その二人についてくる仲間の多さをうらやましくない、といえば完全な嘘になるだろう。
 ユリのために闘う自分に同情してくれる者はいても、一緒に闘ってくれる者は結局、リョウの周りにはいない。
 いや、やりようによっては作ることが出来たかもしれない。母親の死亡と父親の失踪から来る生活苦は、一時期、リョウを深刻な人間不信に陥らせた。その人間不信が、リョウの周囲にやってくる人間の感情を「同情」から外へ出さなかったのだ。
 同情など一切、自分の生活の役には立たなかった。どうせなら、同情の量と同等の札束のほうが、はるかに自分と妹の生活に有用なのに。そういうものを持っていない人間に限って、大量の同情を寄こしてくる。
 そう思っていた時期すら、リョウにはあったのだ。

 この時、自分にできない生き方をするキングとジャックというアウトロー二人に対して、一種の敬意すら持ったリョウだったが、彼には彼で、守らなければならないものがあるのは確かな事実だったし、彼はそのために生きてきたのだ。
 リョウはジャックの殺気に負けないほどの闘気を放つ。

「ほう……?」

 ジャックの表情が、一瞬に変わった。彼は、自分の正対している自分よりも小さな相手がかなりの実力者だということをよく知っていて、その実力を侮蔑するような言葉を吐いたことは一度も無い。
 自分に対して怖気づくこともなければ屈することもしないこの東洋人のことを、実のところジャックはかなり気に入っている。無論、彼の性格上、手放しで褒めることもないが。
 このときは、リョウとジャックがお互いに持っている敬意が、良い方向に出たようだった。まずジャックが、熊のような逞しくも物騒な腕を下げ、リョウもそれに応じて殺気と闘気を押さえ込んだ。

「俺はただ、お前達の争いに関わりになる気はないと言いに来ただけだ。
 俺に誘いをかけてくるものは二人や三人ではないが、俺はどこにも属す気はない。
 俺は俺のために闘うだけだ」

「それがお前の信念というヤツか。東洋人のヤツらは頭が固い。チャイナタウンの老人達も似たようなことを言ってたが」

 ジャックが呆れたような顔をしたが、すぐに表情を引き締めた。

「まあ良いだろう、ブラックキャッツがこの抗争にお前を巻き込むことはない。手下にもよく言い含めておく。
 だが、お前は自分の実力と評判をまだよく理解していない。お前の意思など無視して戦いに巻き込もうとするヤツは必ず出てくるぞ。
 サウスタウンは、俺のように話の分かる人間ばかりじゃねぇ」

「そのときは、何度でも叩き伏せるだけだ」

「フン。いつかは鬼神と化したお前と闘ってみたいもんだぜ、リョウ・サカザキ。
 お前の技が勝つか、俺の腕力が勝つか。どちらが言い分を押し通すかの殴りあいだ」

 リョウはバイクにまたがり、エンジンをふかしながら、ジャックの表情に合わせるようにニヤリと笑った。

「お前が望むならいつでも闘ってやる。個人的な恨みつらみのない殴りあいなら大歓迎だ」

「ハッ、気の早い野郎だ、もう勝つ気でいやがる」

「事実、そうなるだろう。極限流空手の前に敵はいない。その熊殺しの腕力によく磨きをかけておくんだな」

 お互いにシニカルな笑顔を向けると、両雄は言葉を抑えた。リョウはアクセルを踏み込んでバイクを急発進させ、その場を後にする。
 ジャックはリョウを取り囲んでいた手下達に声を荒げて指令を出した。キングとの抗争は些細なきっかけで起こるだろう。ジャックにも遊んでいる時間はないのだった。

『そうやって孤高を気取れるお前が羨ましいがな、そういう時間は長くは続かないもんなんだぜ、リョウ・サカザキ』

 リョウのバイクの音を背中に聞きながら、ジャックは妙に神妙な思いをめぐらせていた。