早いものでユリが時間の経過間隔を掴むことに苦戦している間に、昼が来ていた。
 学校は半日でおしまい。先ほど、友人たちとも別れて、今は一人きりの家路だ。
 サウスタウンは犯罪都市でもあり、一部の裏通りやダウンタウンは危険なため、女性が一人でうろつくことをどこも推奨していないが、人目の多い表通りなら話は別である。あくまで比較の問題であり、他の大都市よりリスクが高いことは間違いないが、平日の昼に歩くなら表通り以外の選択肢はない。

 ユリは今日は朝から半分ほど呆けていた。集中力がなく、何も考えられない時間が続いた。
 友人が心配してくれたが、ユリは話をそらした。間違っても友人に話せる内容ではなかった。
 昨夜、リョウはいつもよりも激しく、荒々しくユリを抱いていた。そのワイルドなストロークに、ユリの理性は呆気なく崩壊してしまい、自分の意識とは無関係にひたすら絶頂と痙攣を繰り返した。
 快感のあまり、早々に意識を失ってしまったのが悔やまれるところだった。もう少し耐えることが出来れば、兄の暖かさを子宮で感じることが出来たのに。
 しかし、ユリは妙な嬉しさも感じていた。兄がそんなにも激しく自分を求めてくれた、言い方を変えれば、自分を性欲のはけ口にしてくれた。それが、何よりも嬉しかった。
 ユリは自分の性癖について理解しているとは言い難いが、もしかしたら自分にはマゾヒストの人格が眠っているのではないか。もしそうだとしたら、リョウと一緒にそれを感じたかった。もっともっと、リョウによって自分にことを「暴いて」欲しかった。
 果てしないセックスの向こう側に、それがある気がした。

 唐突にユリは、自分がとてつもなく淫乱なことを考えているのに気づいて、立ち止まった。自分でもわかるくらい、顔の温度が上がっている。おそらく顔が真っ赤になっているだろう。
 つい先日まで、自分は処女だったのだ。最高のかたちでそれを失ったが、踏んでいく順序と段階は、まだまだあると思っていた。

Act.1-15 IN THE WIND
KEEF

 信号待ちで立ち止まったとき、ふと視界に妙なものがうつりこんだ。
 いや、風貌なおかしな者ならヒッピーの中にいくらでもいるが、そうではない。視線がユリと重なり合う男たちが数人、横断歩道の向こうにいたのだ。
 間違いなく自分を見ている。数は五人、身長・体格はバラバラだが、みなガラの悪い面相と服装をしている。

(もしかして、私を狙ってる?)

 ユリ自身の緊急信号が頭に鳴り響いて、ユリはとっさに方向を変えた。横断歩道を通って真っ直ぐ自宅に向かう道ではなく、多少、遠くはなるが大回りしての別ルートを選んだのだ。
 ユリが振り返るのを見て、「行ったぞ!」と叫ぶ男の声が聞こえた。それは、明らかに軽いナンパ感覚で発せられる声ではなかった。獲物を狙うハンターの声だ。
 ここサウスタウンでは、行方不明事件など毎日のように起こっている。半分が死体で見つかり、半分は永遠に見つからない。身代金と引き換えに帰ってこれた者は極めて幸運だ。
 それを知っていたから、ユリは必死で逃げた。自分が誘拐などされようものなら、リョウが毎日戦っている意味がなくなってしまう。それだけは避けたかった。リョウの行動には、すべて意味があるべきだった。
 こう見えても、ユリはソフトボール部のエースピッチャーだ。運動神経もいいし、俊足でもある。体力も同年代の女の子に比べたらあるだろう。逃げ切る自信はあった。

 だが、男たちはユリが思うよりも俊足だった。あるいは、バネがあった。もっとも小柄な一人が追いつき、ユリの服の袖をつかんだ。ユリは無理やりその足を止められた。
 そしてあっという間に囲まれた。ユリは腕を掴まれ、口を手でふさがれた。脱出不可能になるまで、ものの数秒だった。
 グループは黒人三人、白人が二人。その黒人の一人が、ユリの顔をなめるように上から下まで見下ろした。
 ユリは悲鳴をあげようとしたが、それも不発に終わってしまう。暴れようにも、器用に身体を掴まれた。

(もしかしてこいつら、誘拐のプロ……!?)

 ユリの思考が絶望的な方向に向かうのもかまわず、おとこたちは自分をビル影へと無理やり押し込んだ。

「この子がMr.BIGの言ってたオンナか? まだ子供じゃねぇか」

「よく見たら子供のくせに出てるとこは出てるじゃん。普通に勃起するわ」

「手ェ出すなって言われたろ。そのオンナで気持ちよくなった次の瞬間にMr.BIGに殺されるぞ」

 とりあえず急に殺されることはないようだが、だからといってユリに有利な条件は全くない。このまま連れ去られて、どこかに送られる、その可能性はかなり高く、ユリの絶望感はピークに達していた。
 この世に神様など存在しない。もしいたら、ユリの母親は今でも彼ら兄妹の傍らで微笑んでいるはずだった。ユリのピンチに駆けつけてくれるはずのヒーローは、今日は別のところで戦っているはずだった。

(……!)

 何一つ好材料がないのを理解してしまった。ユリは乱暴に引きづられるのに精一杯の抵抗を示したが、大の男二人の腕力にかなうはずもなかった。
 だが、この瞬間を意外な男が目撃していた。自分の愛車とバイカー軍団を引き連れて走っていた暴走族「ブラックキャッツ」のジャック・ターナーが、ビル影に消えていく男女の集団を視界に入れていたのだ。

「黒髪の三つ編み……日本人ジャップか? 二度ほど見たが、ちょうどリョウの妹があれくらいの歳だった気がするが……」

 いきなり道路沿いにバイクを停めたリーダーに、部下たちは驚きながらも次々と従う。彼らにはヘルメットを被るという風習がないため、会話は普通の声で通じた。ジャックがバイクの上で巨体を揺らせて数人の部下を睨みつける。

「おい、例の空手家のリョウ・サカザキは今日はどこで戦ってる? うちのブックメーカー系か?」

「あの男なら、今日はレッドリバーストリートの方にいると、ミラーから聞いてますが」

「よし!」

 ジャックは喧嘩っ早くて粗暴で粗野な男だが、決して惨酷な男ではなかった。特に利が絡むと、時に驚くべき決断力を見せる。
 今日もそうだった。とっさにグループで最も若い男に命令した。

「ハイン、今すぐレッドリバーまで走って、リョウを呼んで連れて来い。テメェの妹が誘拐されかけてるってな。
 イーライとデイビッドは俺と来い。あの誘拐事件をぶっ潰して、今のうちにリョウに恩を売ってやる!」

 なにがなんだかわからないうちにも部下たちはすぐさま威勢の良い返事を返した。黒髪で細い顎を持つハインは愛車のトライアンフを猛スピードで走らせた。
 自分でも言った通り、リョウに貸しを作る最高のチャンスだった。これをうまく利用すれば、必ず近い未来に来るキング一派との闘争でリョウを味方につけることが出来る。
 思考の方向が違い過ぎて、ジャックにとっては時に何を考えているのかわからない男ではあるが、格闘の腕は立つ。それは確かだ。
 ジャックは自分がサウスタウンで一番強いと信じて疑わないが、もう一枚切り札が欲しかった。リョウならば、切り札以上のジョーカーになってくれる。
 絶対に逃すことはできない。そう思った。しかし、そう思った時点で事件はすでに彼の思惑とは違う方向に向かっていた。

 リョウの妹だと思われる女を拉致した集団が消えていったビル影から突如、小型の竜巻が起こったのである。空気のカタマリが急激に天に向かってのび、一瞬暴風と化して暴れた後、すぐに消えた。


 ユリ自身、今何が起こっているのか理解できないでいる。
 ただ、「風が走った」。そして、ユリを捕まえていた男が一人、後方へ投げ飛ばされた。
 次の瞬間、もう一人の男が、地上から「浮いた」。この時点で、ユリはようやく首を動かすことが出来るようになり、今この瞬間を「目撃」することができた。
 牧師。そう、ブルーの牧師風の衣服を身に纏った2メートルに届かんばかりの大男が、「犯人」の男の頭を片手でつかんで持ち上げていたのだ。
 髪は黒。短髪のもみ上げからあごひげにつながり、どういった趣味・志向からか頭頂部が金色に染まっている。
 眉は薄く、それ以上にユリを驚かせたのが、その大男の「瞳」であった。虹彩、いわゆる「黒目」にあたる部分が、普通の人間ならば丸くなっているものが、この男は一本線に近い縦長の形をしていたのだ。
 あまりにも視覚的な特徴が多く、ユリはいま自分がおかれている状況を忘れかけてしまったが、それも大男の声によって現実に引き戻された。
 大男は一瞬、口元をゆがませた。健康的ではない笑い方だった。そして。

(……風?)

 ユリのスカートがふわりと揺れる。先ほどと同じだ。牧師から「風」が立ち上っているのだ。
 そしてそれは、牧師の掴んだ男を竜巻と化して包み込んだ。

「フフフ……お別れです!」

 牧師のバリトンの声が、少しの悦楽を含んでいるようにユリは感じた。餌食となった男は、牧師の腕の中で文字通り竜巻に襲われ、なます切りに刻まれて地面に放り出された。
 不思議な「風」であった。獲物を切り刻む破壊力がありながら、それの外にあるものに一切の害をなしていない。実際、すぐ隣にいたユリが無傷であった。
 ユリは身体が自由になると、すぐに牧師の後ろに隠れた。
 本当なら、ここで最も正しい行動は、走って逃げることだったかもしれない。ただ、ユリは頭がまだ正確に回転しておらず、とっさに最も安全な位置に身体を動かしたに過ぎなかった。

 あっという間に二人を失った犯行グループは、すぐに次の手にうつった。一人が銃を、そして二人が少し大きめのナイフを取り出したのである。
 それは、決して逃げる意思のない、絶対にユリを誘拐してやるという強い意志の表れでもあった。
 ユリが牧師を見上げると、その表情に息をのんだ。口元で笑いながら、目が全く笑っていない。心の底から相手を軽蔑し、蟻のごとく粉砕することに全くなんの躊躇も示さない、そんな表情をしていた。
「冷酷」という言葉の具現化。
 牧師はユリを一瞥だにせず、ただ「前に出るな」と言わんばかりに自分の服の裾を軽く振った。そして、右手を自分の顔の高さに突き出し、人差し指と中指の二本を天に向け、そして口元を釣り上げた。

「ここですか!?」

 またしても竜巻が巻き起こる。今度は、牧師自身ではなく、犯人の一人の足元から、急激に風が怒りを得た龍のように天に昇っていく。この竜巻はさきほど一人をなます切りにしたものと違い、まるで自動車のによるひき逃げ――当てて弾き飛ばすように一瞬で消えた。
 ただ、その破壊力は尋常ではなく、直撃された男はビルの壁に吹き飛ばされ、首と腕があり得ない方向に曲がっていた。
 これで残るは二人。だが、数の差が絶対的に勝敗に影響するものではないのだということを、ユリは思い知った。
 ほとんど瞬間的に、残りの二人も弾き飛ばされ、俗な言い方をすれば「糸の切れた人形のように」無残な姿で崩れ落ちた。

 こうして突然起こったユリの誘拐未遂事件は、あっという間に幕を閉じた。
 ユリを救った牧師は周囲を確認し、さらなる相手がいないことを悟ると、無言のままその場を後にしようとした。それを引き止めたのは、ユリの声だった。

「牧師様!」

 牧師の足が止まる。ついで、肩から上がユリに向かって少し動いた。相変わらず細い虹彩が、ユリを視界に入れる。

「あ、あの牧師様、助けてくださって、ありがとうございました!」

 深々と頭を下げるユリに、牧師は振り向き、直立不動のままユリを見た。

「礼の必要はありません、レディ。私は教えのままに行動したのみ。決してあなたを助けようという義侠心から彼らを打ち倒したわけではないのだから」

「でも、私があなたに助けていただいたのは事実です。なにかお礼をさせてください!」

「フフ、困りましたね」

 男の笑顔の成分に、はっきりと困惑が加わったことを、ユリが気づいた。

「あの!」

「はい?」

「あの、牧師様、でしょうか、それとも神父様、でしょうか」

 ごく単純な質問を、ユリはした。キリスト教において、牧師はプロテスタント、神父はカトリックである。アメリカはれっきとしたキリスト教国であり、熱心な信者に対して失言をすると失礼にあたる。

「そのどちらでもありません。私はキリスト教徒ではない」

「では……?」

 自然に、二人の表情に困惑が混ざった。見方によっては非情に滑稽な場面だったかもしれない。少なくともユリは真剣だったのだが。
 男は答えた。

「私には何かに仕える義務があり、そのために生まれたときから得ているものが先ほどの風の力です。
 しかし、私はまだ、自身が仕えるべき「神」を見つけることが出来ていない。私の信仰は、未だ闇の中に光を見つけていないのです」

「では、神はいるのですか?」

 男が数秒、顎に親指を当てた。

「あなたに信仰があるのならば、間違いなく。
 わたしたちが非存在であると教えるために、神みずからが非存在となったのですから」

 男の表情が少し和らぎ、再びユリに背中を向けた。

「あ、あの! せめてお名前と、なにかお礼を!」

 男は再びユリを背中越しに見ると、少し微笑んだ。

「名乗らないでおきましょう。わずかの偶然で拾った命、大事にしてください。
 そしてあえて礼を求めるのなら、健康に、健やかに育ってください。いずれ見つかるであろう、我が神のにえとなるために……」

 心底の笑顔だった。ユリはそう思った。そして、その笑顔から発せられた内容に、背筋を寒くした。
 果たして自分は、命を救われたのだろうか。この男も将来、自分の両親を襲った事故のように、自分を、そして自分の大切なものを奪いに来るのだろうか。

(……いやだな……)

 礼を言おうにも、素直な言葉が出なかった。そのまま立ち去っていく男を、ユリは無言で見送ることになった。
 そして入れ替わるように、ユリの背後からジャックが巨体をゆすってはしってくることろだった。